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2017年8月 2日 (水)

六萬寺

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今から1287年前の天平2年(730年)、聖武天皇は讃岐の国主・高晴公の禄を増し、新たに6万戸を御下賜になりました。
 
高晴公は大変喜び、国家の豊穣を祈り、帝の大恩に報いるため牟礼の郷に寺院を建立しました。 これをお聴きになられた帝より「国豊寺」という寺号の勅額と、新羅王から献上された阿弥陀仏を本尊にせよ…と賜ったのが、この寺の始まりとされています。
 
 
 
 
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その後、40年程経った天平年間に、国内に伝染病が流行した際、その疫病を鎮めるため当寺で一大祈祷会を修したところ、疫病は直ちに治まりました。
 
これを喜んだ高晴公は、六万戸の領民に、一戸一躯の銅の仏像を奉納せしめたため、以後は「六萬寺」と呼ばれるようになりました。
 
 
 
 
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この「六萬寺」へは、琴電・六万寺駅から北へ10分程歩き、牟礼住宅という団地の手前を右に折れ、狭い路地を進むと、その突き当りにありました。
 
疫病を鎮めた寺ということから、「六萬寺」は多くの信者を集め、七堂伽藍を備えた大寺院になりました。
 
 
 
 
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寿永2年(1183年)9月、源平合戦のさなか、安徳天皇が屋島に御遷幸なされた際、御殿の築造が間に合わず、三種の神器と共に翌年まで、行在所として六萬寺へお留まりになられたことがあります。
 
 
 
 
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現在の「六萬寺」の境内は、それほど大きなものではありませんが、その昔は七堂伽藍を備えた大きな寺院であったと伝えられています。
 
 
 
 
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こちらが、六萬寺境内の西端にある、「勝軍地愛宕大権現」の石鳥居です。
 
 
 
 
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文治元年(1185年)2月、屋島合戦の際、この「勝軍地愛宕大権現」に源義経が戦勝祈願に訪れた…と記録されています。
 
また、佐藤継信が戦死した際は、義経が当寺の住職に回向を依頼し、武具を寄進。 武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛などの将は、形見の書状を書き残したと伝えられています。
 
 
 
 
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今から430年程前の、天正11年(1583年)4月、長曾我部元親が当寺を訪れ、寺の由来や平氏、源氏が寄進した数々の品々を見て感動した…と伝えられています。
 
ただ、そのすぐ後、長曾我部軍・軍兵の失火により、伽藍のほとんどが灰燼に帰してしまいました。  残念なことです。
 
 
 
 
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現在残されている建物は、延宝7年(1679年)5月に、初代高松藩主・松平頼重公の寄進によって建てられたもので、それから340年程が経っています。
 
そのせいか、「六萬寺」の寺紋には「葵の紋」が使われていました。
 
 
 
 
 
 

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コメント

由緒てんこ盛り!
こんなひっそりとした寺院に・・
驚きです

→ 鉄腕マトムさん

歴史が古い寺には、色々なことがあるんですネ~!

鐘楼や石像が印象的です!
たたずまい、とても親近感を感じるお寺ですね。

→ キハ58さん

四国霊場に指定された寺ではないので、あまり立派な境内ではありませんが、歴史を感じさせる、落ち着いたお寺さんでした。

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